今日は、ミクシーばかり書いていた日だった気がする。
いじめの問題であるマイミクさんともめた。もめたと書いたがどうも討論ではない気がするからだ。
彼女にしてみれば私が日本人を批評することが自分も入っているみたいで嫌なんだろう。
いや、嫌とは書いてないんで勝手に自分で付け加えてはいけない。私の思い込みである可能性は高い。
彼女は私が日本人を批評することが彼女自身も入っているみたいに感じる。と書いてあったので、
違いますと答えた。
日本はどうしたらいじめがなくなるかという話しをしていると私は解釈しているが、そのとき「日本」はと書くとなぜか彼女のことになってしまう。私はこのロジックはてんでわからない。何故 個人批判だと感じるのか???
貴女は日本を憎んでいるでしょう?
とあったから、かつては憎んだがそのこら変はどうでもよくなっている。フランス人になったから自分でそこらへんはかたをつけてしまったんだろうと思う。
憎むは愛するの裏返し。だから私は日本人として日本を愛していない。
私はフランス人になった日本人として日本人が好きである。日本文化も好きである。でも日本社会は嫌いで、固まったときに生ずる無機質な団体の日本人は嫌いである。
思えば、日本は遠くに行ってしまった。遠くに行かないほうがおかしい。。日本を離れて20年だもの。
待てよ、私が日本を愛さないと彼女は嫌なのか???そこまで他人に関心が持てることに感心する。私は彼女が日本を愛してるかどうかはそんなに関心事ではない。
が、陰湿ないじめの問題はさておき、福島の問題で私は日本の行く末を心配している。だからにくんでいるってよりは、愛してるってカテゴリーに入れていただいても撥は当らない。陰湿ないじめの問題は世界共通。もちろん日本的なじめじめという性質は違うけど。
福島は、確実に日本だけの問題ではない。空気の中に「福島産」の体に悪いものも入ってるんで、人の国のことだからといってほおっては置けない。人類の問題だ。生物全体の問題だ。あなたの子供の問題だ。
どうしたら、まず再稼動をとめられるか、考えていきたいと思ってる。
そこから見れば、よっぽど日本愛国者だとおもうが。。どうでしょう?? 冗談 冗談
そんな話をプラセットのジプシー文化漂うカフェのテラスでフラメンコ聞きながら、夕食を旦那におごってもらったときに話したら、彼の意見はこうだ。「そんなの世界共通であることだ、僕はアメリカの批判をする。そうするとどこからか、君はアメリカが憎いなのか、それなら出て行け。。という声が上がる。そのとき、ネットなんかでいちいち対応していたら時間過ぎていくだけで埒は明かない。僕の対応法はこうだ。『僕はアメリカを憎んでいない。僕はアメリカを愛している。君はアメリカを憎んでいる。なぜなら、君はアメリカをよくしていこうと考えてないからだ。』と切り込んだ会話をしなきゃ駄目」という。
アメリカ語の切り込み方としてはすっきりしてわかりやすいが、日本語でやったらいったいどういうことになるのか?
私は傷ついた~とビーーーとなかれたら、これは、大変。被害者は王様だから、私はいじめた加害者として蜂叩きに遭うかもしれない。それこそ集団でいじめられるわけだ。クワバラ。 こうならないようで、杭は出ずに、みんな仲良しこよし。こういう思想が定着するにいたったのだな。
そんなことをいってると、それは世界共通と、旦那の叫び声がが聞こえそうだ。世界共通デモね、日本語だとね、とにかく中心は言わないの。ズウウウウト周りを叩いて6時間、父が死んだあとの会議みたいなもんさ。蓋を開ければ財産よこせ。それだけのこと。フランスだったらもう格闘が始まってるけどね。え、日本のほうが進化してる?わたしは駄目。クワバラですわ。
そうそう、この日記はこれを書くことが目的ではなかった。
ミクシーで書いた作文を貼りたかった。
「日本人」と「日本」の使い分け方
「日本は無責任」
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とタイトルが眼を引いたので、やっとそういう論戦がでたかと言ってみたら、ちょっとがっかりした。
日本人は世界に名だたる礼儀正しい国民性で、必要ないときまでもぺこぺこと頭を下げて謝りまくるのに、ちょっと大きな問題になると、たとえ個人個人のあり方で簡単に変えられる問題だとしても(ひろ子さんがいい例を挙げていた。満員電車・まさしく。)、団体でくくられると「しょうがない」と言う仮面を被り、やりたい放題・礼儀もあったものじゃない状態になるのだ。
たとえば日本軍という団体になればやりたい放題ころし放題人間性なしだったとか、身近で言えば、ヨーロッパに来る団体旅行者はかなり悪評だし、韓国に女買いに行った団体の話を聞くと胸糞が悪くなる。それとともに、今回の原爆事故に関し、日本は日本人を捨てたばかりか、日本も日本人も、世界に申し訳ないことをしたと言う論戦がまるで見られないところが、なんだか不思議な国であり国民性だなあと思って海の外から眺めているしだいだ。反対に、世界から責められているだろうという被害者意識だけはツイッターなどでよく見かける。
といっても、国民一丸になって土下座しろと言う意見ではない。
何がいいたいかと言うと、「日本人」と「日本」の使い分け方があるためにそこを本質的に正さないと、本当の意味で、日本は民主主義にはならないのではないかと言うことが言いたいのだ。
民主主義が最高の考え方だとは思っていないが、今現在にお全体主義に共産主義がかぶっていてそれを民主主義で覆ってる現在の日本のあり方より、民主主義のほうが絶対的にましだと言いたいのだ。
日本ではよくグローバル音頭が叫ばれているが、本当のグローバル化にはいたっていない。
原発再稼動反対が大きくてもまだとめられない。
やっぱり、意識は日本の子供を救おう。日本の美しい自然を守ろうと日本がついてしまう。
何で海を隔てた向こう側は意識に上ってこないのか??
飛行機が落ちれば「日本人はいなかった」と報道される。
満員電車では、なぜか助け合いではなく押し合いの精神が当然のようにはびこる。
「日本人」と「日本」の使い分け方が、はびこる。これは意識のない2枚舌のようだ。
団体になるととたんに「私は知らない」「私は関係ない」という意識。
福島が、ある意味では、これを反省する機会になるのではないかとひそかに期待している。
ドイツは、第2次大戦の終わりに国民が反省せざるをえなかった。この全体主義思考。
日本は原爆を落とされたことによって被害者意識がそれを妨げたのではないか?
それとともにアメリカに完全従属することによって、2枚舌を養成する鍵になったような気がする。
個人個人がこの2枚舌をなくさない限り、原発は止まらない。止まったとしてもまた同じようなことが、団体によってなされ、個人は、仕方がないと言うトリックでまた同じことが繰り返されるだろう。
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