今日は日曜日であります。日曜日と良い月曜日といい、特に南の町はお店はしまってしまい、カフェだけ開いているという感じ。
一番の人々がすることは友人の家で夕食だったり昼食だったりであります。
ということで 私も 今日は休ませてもらえる日であります。
むふふ。
ひろこ2さんは、タラスコンのお城を見に行き、私は旦那とネコでお留守番。夕食は二コルのお城に招かれていて、夕食作らなくてもいいのであります。
なんという安息日。
朝からだらだらだらだら、シーツに包まり、小さいコンピューターを久しぶりにあけ、たらたらと読み物をして、おきだして今日着るドレスのリフォームに手を出し、おっと、ちょっと感じたことをメモしないと忘れるぞと思い、ミクシーの日記を立ち上げたわけです。旦那とネコはいい意味で空気と同じ存在でございます。旦那とネコは私一人と変わらない孤独の自由を与えてくれる存在であることに時々驚きます。
ひろこ2さんと私はおしゃべりなんで、途切れがないおしゃべりをたのしまさせていただいております。その会話の中でわかったこと。
私の誤解と解けた疑問。
日本語だと慣れてないから会話に疲れてしまう。
フランス語が達者でないからお客さんとの会話に詰まってしまう。
縫い物とコンピューター関連の仕事を比べるとなぜかコンピューター関連のほうがいらいらくる。
電話恐怖症だ。
まだあるかもしれないけれど書くのは端折ると、
私はヴィジョンの人で、説明が大の苦手で しかも説明することに重きを置いていない。。もちろんヴィジュアルで説明は簡単。ところが言葉で説明となるとどの言語においても頭がだら~と溶けてくるのである。そして出来ない自分にもいらいら。あうんでわかってくれない客にもいらいら。このごろは、いらいらしない方法を開拓したように見えたが、こんなものは傷口に薬を塗る表面的な処方なだけで、源には、『説明が大の苦手で しかも説明することに重きを置いていない。』問題が深く鎮座していた。
客と書いたが、一般的な友人関係も然り、個人を知るという作業や個人に興味を持つという対象も、感じる 見る ということが中心で、友人のプロフィールを書きなさいといわれたら旦那のものでさえもかなりアウト、記憶にございません、、状態。ひろこ2にだんなの大学はニームで出たのといわれたとき。。記憶にはございません状態。
感じ取る 見て観察する能力は大変あるというものの、ものを説明して的確に人に伝えるという能力に徹底してかけてるなあと。。ここまでカタワ的では困ることがいっぱい出てきてるではないかと。。反省しました。
じゃどうしたらいいか?
これを考え中です。
わかってもらって感謝されると説明が楽しみになるんでしょう。しかも音声で。見たり指し示したりしたら簡単なんですから、見えない状態で言葉で説明ってのが必須ですね。
ちょっと糸口が見えたのは、ニームのソフィーから電話のあったときです。
ニームのソフィーはコンピューターが恐ろしいほど苦手です。触るのが怖いほど苦手です。
おととい、ひろこ2と足を水に浸してバッサンで楽しんでいたときに電話がかかってきました。ニームのソフィーからオバーブロッグの説明を求められました。
以前より私の電話恐怖症はよくなっており、
まず電話を何事もなかったようにあけることが出来る様になりました。
そして、何事もなかったように、アローといえるようになりました。
そして以前のような、フランス語だからわからないとパニックになって、耳をふざいでしまうのも半分はなくなったようです。
この電話恐怖症、フランス語のせいじゃなかった。説明を聞いたり、説明したりすることの恐怖だったんです。
ソフィーからオバーブロッグの説明なんて彼女の言ってることがわかったらチョロイもんだったのです。オバーブロッグのブログを立ち上げるとき、下にボタンが4つほどあるんです。そのボタン4つのうちのどれを押せばいいか彼女はわからなかったのです。そこで、フランス人だからフランス語がわかるからそんな事読めばわかるわけだから、その質問はするわけないし私の聞きまちがいであるに違いないと、思い込むととんでもない方向に走りますね。質問をそのままジャッジせずに受け入れて、そのまま答えを返せばよいのです。
『Édition de l'article のボックスの下にpublierというボタンがあるはず。何番目だったかは見なければ思い出せないけれど確かpublierという言葉を使っていた。それを押せば自動的に書いたものはブログに載せられるよ。』簡単なことでした。
そうしたら電話口のソフィーはあったあったとまるで火を発見した人間のように嬉しがったのでした。有難う有難うといわれるとこちらも嬉しく。。音声だけで説明できる素晴らしさを味わうことが出来ました。
コミニケーションを取るための単語の覚え方もいい加減ですねえ。漢字の読み方も自分風。フランス語の読み方も自分風。これじゃ、人様はいい迷惑なわけです。
それも自分でうすうすわかってる。でも直さないのは、説明に楽しみをまったく感じてないからなんですね。木の名前なんてどうでもいいわけで、その木の幹が美しかったりするほうが興味の対象。それでミクシーで、アイコンでその人の顔が張ってないと恐怖を感じるわけです。花に向かってしゃべってるとか犬に向かってしゃべってるとかなんだかおかしな想像になるわけです。
しゃべってる内容よりもなんかもっと感覚的なものの方が楽しみになってる。
それが私のダンスであるわけです。私のダンスはよく言葉が入りますが、言葉は説明するという言葉ではなく 切り刻まれ、抽象的になって、感覚でしか存在しなくなる。
美術館にいって横に書いてある説明読むのは大嫌い。
きれいな建物の前で歴史的説明されるの大嫌い。
見るときに説明されると感じることをさえぎる邪魔者でしかないわけです。
説明は脳が解けてきてすごく疲れるわけです。
こういった苦痛から説明を楽しみに変えるには、音声だけで説明できる素晴らしさを味わうこと、しかも、ねたはコンピューター。媒体は電話だなあ。。。と思ったのでした。